「結果には原因がある」ということを頭に叩き込む

Windows がまだ 95, 98, ME であったパソコン普及期には、「何もしていないのにOSが起動しなくなりました。」「何もしていないのにネットに繋がらなくなりました。」というような質問・悲鳴が溢れていた。もちろん本人が何もしていなくても時限的に発生してくる問題もあるのだが、あらゆる結果には原因が存在する。特にコンピュータの世界では絶対にそうだと言ってもよい。あくまでも「私には原因として思い当たるものは何もないが、問題が発生した」ということなのだ。

先の質問・悲鳴でも、「何をしたか」「何があったか」を全て説明して貰うと原因は明らかになることが多かった。

  • OSが起動しない人→「そういえば、Windows Updateってのをやれって表示されたんでやりました。」
  • ネットが繋がらない人→「部屋の模様替えをしたのでPCを移動しました(LANケーブルを抜き差ししました)。」「(家庭内PC番長の)兄がBBルーターを買い替えてました。」

「結果には原因がある」というコンピュータの世界の絶対法則を頭に叩き込むべきだ。原因がわからないのは仕方がない。しかし、原因があるはずだがまだ解らない、というニュアンスと、さっぱりわからない、事象が勝手に起こっている、というニュアンスとでは差がある。

「天罰だ」といって殺人事件の調査をしない探偵

「天罰」を信じている探偵と、「この中に犯人がいるはずだ」と信じている探偵では調査の本気度が変わってくるだろう。「結果には原因がある」ということを叩き込まれた人は「何もしていないわけがない」「何もしていないとしても、誰も認識していない設定により何かが(自動処理などで)起こったはずだ」と本気で調査することができる。

原因特定の近道

問題が起こった以上、なにか原因があるのは間違いない。振り返れば、問題を起こすようなものだと認識していなかった行為が原因であることのなんと多いことか。もともとそのように認識していれば、慎重にもなるし、問題が発生しても自己解決できてしまう。騒ぐ様な問題になっている時点で「自分には原因とは思えない行為に原因があるのでは」と考えなければならない。その考えのもとで、主観を加えずに時系列にそって何をしたか、何が起こったかを振り返る。それが原因特定の近道だ。

「何もしていない」という言葉の持つ曖昧さ

「何もしていない」という言葉は曖昧だ。主観が入り込む余地がありすぎる。だからこそ「何もしていない」と言いたい時に単に「何もしていない」とそのまま言うことに躊躇いを感じる。

  • 本当に何もしていない。
    • サーバに接続もしていない。
  • 原因だとその人が思えることは何もしていない。
    • サーバに接続だけはしたが、コマンド実行などはしていない。
    • サーバに接続してコマンドも実行したが、参照系のコマンドしか実行していない。
    • 手順書に沿って書かれている通りにやっただけ。
    • 普段通りのことをやっただけ。
    • ちょっと普段と違うことがあったが気に留めなかった、忘れた。